きっかけはインターネットの情報だった
1963年トリノショーの後、ヴィニヤーレのダイハツ・スポーツはモナコのコレクターに売却されていた。そこで長らく大事に保管され、次にオーナーになったのはフランスのリヨンのコレクター。彼がクラシックカー売買の仲介業者を通じて売りに出したことが、里帰りのきっかけになった。その情報を2004年にインターネットで掴んだのが、当時ダイハツのデザイン部長だった石崎弘文氏である。

すでに定年退職しているが、石崎氏は初代ムーヴからミライースまで多くのヒット作を手掛けたデザイナーだ。少年時代に自動車専門誌に掲載されたダイハツ・スポーツの記事を「穴が開くほど読んだ」という。
そんな石崎氏はすぐに社内で購入を提案したが、会社に予算を計上してもらうのは簡単ではない。「しばらくは忘れられていたが、チャンスが巡ってきた」。2007年にダイハツは創立100周年を迎える。その記念事業として企業ミュージアムの『ヒューモビリティワールド』を建設すると共に、歴史を彩るクルマを集め、修復しようという気運が盛り上がったのだ。これでダイハツ・スポーツの購入にも予算がついた。
2005年9月、フランクフルトショー視察を兼ねて渡欧した石崎氏はリヨンで、販売仲介業者の立ち会いのもと、ダイハツ・スポーツと対面した。
リヨンで実車に対面
「リヨン空港近くのオーナーの家を訪ねた。倉庫兼ガレージで見たダイハツ・スポーツは、想像していたよりはるかにコンディションがよい。エンジンも一発でかかった」と石崎氏は振り返る。


元ショーカーとはいえナンバーは付いており、オドメーターは2万3875km。モナコとリヨンの二人のオーナーはこれでドライブを楽しんでいたらしい。「リヨンのオーナーは投機目的で買ったようで、だから大事に乗っていたのだと思う」と石崎氏。状態は文句ない。あとは価格の交渉だ。
「仲介業者がしたたかで、値段を吊り上げようとしてきた」。相手が自動車メーカーで、しかもダイハツとなれば、それも当然だろう。しかし石崎氏も粘り、仲介業者がホームページに表示していた「定価」で買うことで決着させた。
その価格は3万7500ユーロ。当時の為替レートで換算すると510万円ほどだ。ここ十数年、クラシックカーの相場は上り続けている。そうなる前に買えたのは、ダイハツにとってラッキーだった。今なら一桁違っていたかもしれない。
2007年5月、ダイハツ本社敷地内にヒューモビリティワールドが開館。ダイハツ・スポーツはここでしばらく一般公開された後、倉庫で長い眠りにつくことになった。
時代の中庸を捉えたデザイン
石崎氏はダイハツ・スポーツのデザインを、「あの時代のイタリアン・デザインの中庸」と評価する。「特徴のない平凡ではなく、奇をてらわずにイタリアのエッセンスを盛り込んだデザインだと思う」。


イタリアのカーデザイン専門誌『STYLE AUTO』も当時、同じように評していた。1964年に発行されたその第4号に、「A TURINESE KIMONO(トリノ流の着物)」とのタイトルでダイハツとヴィニヤーレの協業を紹介した記事があり、マリオ・ディナリッチ編集長がダイハツ・スポーツについてこう書いている。
「特筆すべき独創性はないが、自然な様式美を見せる。その完成度は技術的手法では到底成し得ないもの。言い換えれば、イタリア特有のテイストや雰囲気を深く吸収したデザインということだ」
独創的ではないけれど、イタリアらしさはしっかり備えている。そんなデザインを生み出したアルフレッド・ヴィニヤーレは、もともと板金職人だった。
父も兄も板金職人だったヴィニヤーレは11歳で板金の修行を始め、ピニンファリーナやスタビリメンティ・ファリーナでボディ設計・製作の経験を積み、33歳で独立。1946年にカロッツェリア・ビニヤーレを設立した。
職人気質のヴィニヤーレ
第1章で書いたように、後にデザイン部長になる柳原良樹氏ら4人が63年トリノショーの前後にヴィニヤーレの工房を視察した。1964年1月のダイハツの社内報『ダイハツライフ』第40号に、彼らが印象を語る座談会の記事が掲載されているのだが、そのなかでアルフレッド・ヴィニヤーレの人柄についての発言が興味深い。
「ビニヤーレという人は、デザインもやれば現場の指揮・監督もする。日本でいえば社長兼班長兼設計兼試作係といったような人なんです」
「ビニヤーレさんがここをこうやる、こうやれと、手まねでいうわけですが、やはりできあがった品物は、そのとおりにデケとる」
「ビニヤーレのオヤジさんは強力にサイハイを振ってますからねえ」
「新車設計の課程でも、向こうはすぐに実物大のホワイトボデーにしてしまうのですが、ここでちぎってもつぎたしてでも気のすむまで直す」(いずれも原文ママ)
叩き上げで職人気質のヴィニヤーレの心意気が社内に浸透していた様子が、ひしひしと伝わってくる。言い換えれば、あまりデザイナーらしくない。
デザイン経験が少ないからこその中庸
ヴィニヤーレは1969年に交通事故で亡くなるまでに数多くの作品を残したが、創業期を除けば、彼自身が白紙からデザインしたと確認できるものはごく少ない。多くはジョヴァンニ・ミケロッティのデザインによるものだ。

ミケロッティは図面工としてスタビリメンティ・ファリーナに入社し、やがてデザインの才覚を発揮。アレマーノというカロッツェリアを経て、1948年にフリーランスのカーデザイナーになった。多くのカロッツェリアが彼にデザインを頼んだが、なかでも彼が信頼を寄せたのがスタビリメンティ・ファリーナで同僚だったヴィニヤーレだ。ミケロッティがデザインし、ヴィニヤーレが製作したクルマは311車種にも及ぶと言われる。
こうしてヴィニヤーレはミケロッティとの協業で成長を果たした。つまりデザイン経験は少ない。だからこそ、石崎氏の言う「中庸のデザイン」が生まれたと解釈できるのではないだろうか?
修業時代から多くの美しいデザインに触れ、それを自分の手で叩き出してきたヴィニヤーレだ。そこにあるエッセンスを体得していたはず。身にしみたものを絞り出せば「イタリアの中庸のデザイン」になる、というのは充分にありえる話だ。
もちろん、ヴィニヤーレがダイハツ・スポーツのデザインを、こっそりミケロッティに頼んでいた可能性も否定はできない。しかしダイハツ・スポーツは、前作のコンパクト・ライトバンでダイハツの信任を得て獲得したプロジェクトだ。せっかく訪れた「自分でスポーツカーデザインするチャンス」を、彼がみすみす手放したと考えるのも無理がある。そんな疑問を残しつつ、次回の最終章ではダイハツとビニヤーレの関係を、少し時間を遡って俯瞰しよう。

