父のセリカやソアラ、初めて乗ったモンキーが乗り物好きの原点

設楽氏が乗り物に惹かれたきっかけは、父親の存在だったという。

「自分の家族、父親が車好きだったんです。スポーツ系のクルマを結構乗っていて、そこでやっぱりかっこいいな、デザインがいいなと。僕らの世代はデジタルなものがなかったので、最初に憧れるのはメカニカルなもの。たまたま身近にあったスポーツカーに惹かれていったんでしょうね」

ヤマハ発動機株式会社 代表取締役社長・設楽元文氏。自身のバイク人生についてインタビューに応じてくれた。

父が乗っていたのはセリカ・リフトバック2000GT、そしてソアラ2.8GTだった。ソアラのボンネットを開けてみると、そこにはヤマハのエンジンが載っていた。この体験が、後にオートバイへの興味につながっていく。とはいえ、中学生の身で四輪は買えないのでバイクに興味が出てくるが、親はいい顔をしない。転機となったのは、親戚の家の納屋に眠っていた一台のホンダ・モンキーだった。

設楽社長の父が乗っていたトヨタ「セリカ・リフトバック2000GT」。身近にあったスポーツカーが、メカニカルなものへの憧れを抱くきっかけになったという。 画像:トヨタ自動車

「体が小さくても乗れるし、適当にいじっていたら『教えてあげるよ』と言われて乗せてもらったら、これが面白くて」

いつか自分のバイクを持ちたいと思い、ついに念願叶いヤマハのパッソルを、デザインの良さだけで選んで手に入れた。「まだスクーターブーム以前で、周りからはなんでそんなもの買うのと言われましたよ」と振り返る。周囲に流されない選び方からも、独自の視点を大事にしていたことが見えてくる。

1977年に登場したヤマハ「パッソル」は、後のスクーターブームの火付け役だった。足を揃えて乗れるステップスルーを採用した50ccモデルで、「ソフトバイク」という新たな市場を開拓した。設楽社長はそのデザインに惹かれ、自身初の愛車として手に入れた。

ヤマハブランドがしっくり来ると思えるように

大学生になるとアルバイトにも励み、RZ250などを購入する。速く走ろうと思っても公道では危険。そこで、筑波サーキットでのレースにのめり込んでいく。レースを続けるうちに、ヤマハRZ125が圧倒的に速いことに気づく。なぜそこまで速さに差があるのか気になり、知人のRZ125を借りて走ってみた。すると、そのパフォーマンスの違いに衝撃を受けたという。

「スペック上は同等のはずなのに、乗り味やトルク感がまったく違う。マフラーやキャブのジェットを変えているだけで、速さが格段に違ってくるんです」

1982年に登場したヤマハ「RZ125」。水冷2ストローク単気筒エンジンを搭載し、「走りのRZ」を125ccクラスで体現したロードスポーツだ。軽快な車体と鋭い加速、優れたハンドリングを武器に高い走行性能を発揮。市販車ベースのプロダクションレースでも活躍し、高い存在感を示した。

この経験は、設楽氏の中に”ヤマハというブランドがしっくり来るもの”という感覚を残した。さらに実家の風呂の給湯器や芝刈り機のエンジンにまでヤマハの名を見つけ、「なぜオートバイメーカーがここに?」と不思議に思ったという。それらの一部は音楽のヤマハが作っていたのに気付くのは後々のことだったが、ヤマハブランドを共有する両社であることに間違いはない。就職活動でホンダやスズキも視野に入れていたが、心を決めたのはヤマハがトヨタ2000GTを手掛けていたことを知ったときだった。ヤマハなら四輪もやれるんだということに加え、その内装に使われたピアノ材のウッドパネルにも心を奪われたのだ。入社試験の役員面接では、そのことについて熱く語ったという。

1967年に発売された「トヨタ2000GT」。トヨタとヤマハ発動機が共同開発した日本を代表するスポーツカーで、ヤマハは主にエンジンの高性能化や車体・シャシーの細部設計、生産を担当。1,988cc直列6気筒DOHCエンジンは最高出力150PSを発揮した。 画像:トヨタ自動車

「当時の日本車はプラスチッキーな内装が当たり前でしたが、コストをかけた内装の車両でブランディングする時代がいずれ来るはずだと話したんです。面接官の方がクルマのことを意外と知らなくて、逆に驚かれました(笑)」

その後も2000GTの話題を向けると、設楽氏は目を輝かせ話が弾んだ。「スイッチの一部にはエレキギターのスイッチが使われていた」「ウッドの材質はローズウッドだと思ってたけどどうやら違っていたかもしれない」「その後、ウッドパネルの在庫が倉庫から出てきた」などいくつもエピソードをお持ちだった。この入社前後の記憶を覚えているという自らの原体験が、後に新入社員へ鈴鹿8耐レース観戦を取り入れていく研修に繋がっているのではないだろうか。

トヨタ2000GTのインストルメントパネルには、ピアノにも用いられるマホガニーと、その塗装技術を採用。ステアリングやシフトノブにも木材が使われ、ヤマハが楽器づくりで培った高度な木工技術が生かされていた。 画像:トヨタ自動車

カスタムバイクブームの火付け役「TW200」のヒットがワイズギアの原点へ

入社後は国内営業からキャリアをスタートし、30代で本社の商品企画へ。XJRやドラッグスター、マジェスティなど、当時を知る世代には馴染み深いモデルの企画に携わった。中でも印象深いのが、ディスコン(生産終了)間近だったオフロードモデル「TW200」の逆転劇である。

1995年に登場したヤマハ「マジェスティ250」。水冷4ストローク単気筒エンジンを搭載し、スポーティな走りと快適な居住性、大容量の収納スペースを両立。スタイリッシュなデザインも支持され、日本に空前の“ビッグスクーター”ブームを巻き起こした。街中ではローダウンや外装変更など、個性的なカスタムを施した車両も数多く登場し、若者を中心に人気を集めた。

「TW200は年間販売2000〜3000台だったのが、そのころ既に300台くらいまで落ち込んでいました。そろそろ製造を止める時期かなという状況だったんですけど、中古車の人気が東京で結構あるんだというのに気付いたんです。調べてみると、ファッションには敏感だけど、あまり収入が多くない渋谷の若い美容師たちに選ばれていました。それに、彼らは改造するお金もあまりないのでパーツを全部剥ぎ取っちゃって個性を出すカスタムをやっていたんです」

1987年に登場したヤマハ「TW200」。前後に極太タイヤを履いた個性的なオフロードモデルだ。一時は生産終了が検討されるほど販売が低迷したが、設楽社長が仕掛けた企画をきっかけに、ストリートカスタムが若者の間で人気を集めた。

このブームに気付いた設楽氏は、バイク雑誌と組んでこの文化を後押しする企画を仕掛けた。社内からは反対の声もあったが、「もちろん違法改造はいけません。ただ、安全を守った上でのカスタムは自己表現であり、文化ではないかと思ったんです」。

そのブームはTVディレクターの目を惹き、TVドラマ「ビューティフルライフ」内で木村拓哉氏の愛車となった。キムタクがバイクに乗ったシーンをなんとなく覚えている人も多いはずだ。結果、TW200は製造終了どころか、年間販売1万台規模まで跳ね上がった。

TW200の年度別登録台数の推移は、93年には400台程まで落ち込んだが、ストリートカスタム人気の高まりとともに販売が急増。90年代後半から大きく台数を伸ばし、2000年には1万5000台以上を記録した。発売から2000年末までの累計登録台数は4万9000台以上に達している。

「この話が当時の社長の目に止まって、カスタムすることがお客さんのためになるのはいいんじゃないかということで、社長賞のマーケティング大賞をいただきました。それで報奨金が出たんですけど、いつの間にか上司などみんなで分けることになりました(笑)」

この経験は、後にカスタムパーツも販売するヤマハ純正用品メーカー「ワイズギア」設立にもつながっていく原点となる。ハードウェアメーカーとしての完成したバイクを売るだけでなく、その後もオーナーのバイクライフを豊かにしていく。そのためには、ユーザーやショップ、ひいては業界全体を支えていく流れをバイクメーカーがリードしていくべきではないか。まさにモノからコトへの転換。近年で言う「バリューチェーン」の考え方を設楽氏は30代で現場から思い付き、実行していったわけだ。

「感動」とは、まずは自分で体験し作り出すもの

その後、マリン事業部へ手を挙げて異動となり、モーターサイクルと肩を並べる収益部門へと育て上げたり、将来有望なインドマーケットを担当しては、インド市場をプレミアム路線に導いたりといった功績を残し、ヤマハ愛に溢れる人材として2025年に社長へと選任される。そんな設楽氏の考える「ヤマハらしさ」とは何か。

「僕が入社した当時の社員は、みんな仕事の裏側が熱かったんです。休みの日に自分のバイクを持ち込んで、一人で山の中を駆け回ってオフロード車を作っていたり。成功か失敗かなんて考えずに、がむしゃらにやっている。その熱量に周囲も感動する。その彼らが作った製品はすごく魅力的なんです。それがヤマハの魅力だと感じていました」

「ヤマハらしさ」の源泉として設楽社長が挙げるのが、社員一人ひとりの“熱量”と挑戦する姿勢だ。「成功か失敗かではなく、やりたいかやりたくないか」。社員自身が仕事でもプライベートでも挑戦し、感動を味わうことが「感動創造企業」につながると語る。

その一方で、組織の階層が上がるにつれ、失敗を許容する空気が薄れていく危機感もあるという。幹部を外したZ世代の若手社員を集めた座談会では、彼らは真面目なので「失敗したくないから、ハードルの高いことはやりたくない」という本音も聞こえてきたという。

「僕らの世代は、成功か失敗かではなく、やりたいかやりたくないかで動いていた。当時の上の人もそれをやめろなんて言わず、よほど危険なことなどでなければやらせてくれた。リスクを計算してからでないと動けなくなったら、挑戦なんてほとんどなくなってしまう」

それらを打破していくためのネクストアクションとして、会社の中でのチャレンジと、個人でのチャレンジを両方やってほしいと言っているのだそうだ。

「感動創造企業となるためには、まずは社員が感動を味わうことだと思うんです。感動創造企業というと、感動を与えることのように聞こえがちですが、これからは自分自身が感動を作り出そうという発想が大事だと思っています。個人では料理にハマっているでも、語学を勉強しているでも、フルマラソンに挑戦しているでもいいんです。挑戦できる人は、会社でもスイッチを入れられるんですね」

「新入社員の記憶は消えない」8耐を見せる理由

鈴鹿8耐を現地で応援する246名の新入社員たち。設楽社長が自ら企画した新入社員研修の一環で、鈴鹿サーキットで仲間とともにレースを観戦。モータースポーツを通じて得られる“感動”を、新入社員のうちに体験してもらうことが狙いだ。

設楽氏は、自ら企画した「新入社員研修」のひとつとして、国内モーターサイクルレースの最高峰である鈴鹿8時間耐久レースに新入社員たちを連れていき、一緒に観戦している。その取り組みについて語ってくれた。

「人生の中で新入社員という時間は一瞬しかありません。そのときに会社が何を見せたか、好きでも嫌いでも、きっと忘れないはずなんです。灼熱のサーキットで同じユニフォームを着て、一斉スタートの場面を見守る。目の前を時速300キロで駆け抜けるマシンにしがみついているライダーの姿。長い時間を耐え抜いたゴールシーンなどを見た感動は一生忘れないと思うんです」

新入社員と一緒にレースを観戦する設楽社長。「新入社員という時間は一瞬しかない」と語り、鈴鹿8耐で味わう興奮や感動を、忘れられない経験にしてほしいという。レースはもちろん、社長と交わした何気ない会話も、新入社員にとって忘れられない思い出になったはずだ。

その体験を通じて、個人では踏み出しにくかった一歩が踏み出せるようになると信じているという。昨年から始まったこのプロジェクトの反応を尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「色んな感想は聞こえてくるんですけど、対価はあまり求めていないです。何が良くなったとか、その効果を数字で表すとかよりも、会社が期待して投資していることを社員に見せないといけないと思うんです。必ずしもインとアウトを揃えるんでなく、会社にも余白が必要なんです。それが無くなっては考えることもできなくなってしまう」

自身の企画した新人研修の成果を披露するのではなく、「それで会話が増えるからいいのではないか」と言う。もちろん、自ら打ち出した骨太の経営を幹部以上の社員、役員と進めながらも、余白づくりまでもしっかり考えている器の大きさを肌で感じた。

取材を終えて

筆者は、世代の近い乗り物好きが、モビリティメーカーの社長を務めるということに、勝手ながら嬉しい気持ちを持っていた。ただ、僕自身は単なる乗り物好きだけで過ごしてきたのに対し、設楽氏は周りをよく見つつ自身に与えられた使命を全うし、そのためにはこれまでのタブーにも立ち向かいながら事業をうまく発展させてきた点でまったく違っていたと気付いた。

一般にバイク好きやクルマ好きは、とかくマニアになりがちで、自分の好きな範疇を超えた乗り物には逆に嫌悪感さえ示すことが多い。けれど、設楽氏は違った。知らなかった世界にも果敢に飛び込み、時には社内の風潮すらモノともせず、目線を遠くにある目標に置いて、動じずに進んできたのではないか。

その姿がちょうど、二輪免許取得で多くの人が最初にぶつかる壁である一本橋と重なった。還暦間際のつい先日、大型二輪免許にチャレンジした僕は、恐る恐る直前の一本橋の細い道を見ながら進もうとして何度も落ちていたが、教官からの「目線を遠くに体重移動はさせずに。余裕があればリヤブレーキも使って」という言葉に救われた。おかげで失敗する事はなくなった。しかも、失敗した経験があるからこそ、『一本橋のコツ』を語ることができる。僕の中で失敗経験がプラスとなった。

乗り物について語るとき、設楽社長は自然と笑顔になる。失敗を恐れず、目線を少し遠くに置いて挑戦する――。自身が歩んできた道そのものが、次世代の社員に伝えようとしているメッセージなのかもしれない。

失敗を恐れず、目前のことばかりを見るのではなく、少し遠くの目標を見つめて、チャレンジする。まさに初心者、つまり社会人としてまだ若い人たちに投げかけたい応援の言葉ではないか。設楽氏はそれを言葉だけでなく、さまざまな方法で伝えようとしている。ヤマハ発動機の若い社員たちは羨ましくさえある。

設楽氏が時折見せる、経済系記者の質問に答えている難しい顔とまったく違う、乗り物の話をしている時の笑顔も印象的だった。もし40歳若ければ、僕はこの感動を創造し、自分も感動できるこの会社の入社試験を受けたかったと真剣に思った。