幻の名車を復元
パブリカスポーツは初代パブリカ(61年発売)をベースとする2座スポーツ。ドアはなく、スライド式のキャノピーを開けて乗り降りするという斬新なデザインだった。

これを量産モデルに発展させたのが、65〜69年に生産され、今も旧車ファンに絶大な人気を持つ”ヨタハチ”ことトヨタスポーツ800だ。スライド・キャノピーは普通のドアに変更されたが、顔付きをはじめ全体の佇まいはパブリカスポーツの面影を色濃く残す。

パブリカスポーツがあったからこそ、”ヨタハチ”が生まれたのは間違いない。しかしパブリカスポーツは試作車。2台が製作されたが、後に廃棄の運命を辿り、人々の記憶のなかだけに残る「幻の名車」となった。
そんなパブリカスポーツを復元しようと考え、完成までの困難な道のりをリードしたのが諸星和夫氏だ。1963年にトヨタに入社して初代カローラのデザインを手掛け、後にデザイン部長やデザイン本部副本部長という要職を歴任したデザイナー。定年退職後の2007年に復元プロジェクトを開始し、5年かけて完成させた。

プロジェクトを始めた頃、諸星氏がこう語っていた。「モーターショーでパブリカスポーツを見て感動し、トヨタの就職試験を受けた。ところが入社してみたら、パブリカスポーツなんてどこにもなかった」
それもそのはず、パブリカスポーツを開発したのはトヨタグループのボディメーカー、関東自動車工業(現在のトヨタ自動車東日本)だったのだ。
トヨタと関東自工の思惑
パブリカスポーツの企画はトヨタの長谷川龍雄主査が手掛けた。初代パブリカの開発主査という大仕事をやり遂げた長谷川氏は、続いて、それをベースに空力や軽量化などで性能を追求する技術実験車のプロジェクトを立案。その設計・試作を関東自工に委託した。

その一方、関東自工側でもパブリカのエンジン/シャシーを使ったスポーツカーを考えていた。技術部トップの野尻康三専務の下で、中心になって動いていたのがデザイナー室(61年にデザイン課から改称)の菅原留意室長と顧問の佐藤章蔵氏である。
菅原留意氏ご子息の大輔氏が2020年に自費出版した『留意さんがクルマを作っていた頃』によれば、野尻専務が長谷川主査を自宅に招いた際に、同席していた菅原氏がスポーツカー構想を説明。それからまもなくトヨタから開発委託の知らせが届いたという。
長谷川氏と野尻氏は東京帝大工学部航空学科の同窓だ。共に戦時中は戦闘機の設計に携わり、戦後に自動車業界に転じた。二人の間で阿吽のやりとりがあったのかもしれない。

デザインは元日産の佐藤章蔵氏
デザイン顧問の佐藤章蔵氏は1937年に日産に入社し、車体設計などを経て54年に初代の造形課長に就任。ダットサン110型や初代ブルーバードなどをデザインしたが、体調不良を理由に59年に退職し、同年、関東自工の顧問となっていた。

日産からトヨタ陣営への移籍を意外に思う人もいるだろうが、その事情も菅原大輔氏が著書に書いている。デザイン課長の菅原留意氏が上司の野尻氏から佐藤氏の件で相談を受けたとき、菅原氏は即答を避けたそうだ。
「ところが今回に限って妙に野尻さんの歯切れが悪い。よく聞いてみると、実は佐藤章蔵さん、野尻常務とは旧制静岡高校の同級生で、互いに技術者を目指し、野尻さんは東京帝大工学部の航空学科、佐藤さんは機械学科に進んだ盟友同士であった」

野尻氏(60年に専務に昇格)が日産を辞めた旧知の佐藤章蔵氏を誘ったというわけだ。佐藤氏の正確なデッサンと面の表情を水彩で描き出すテクニックは、日産でもトヨタグループでも長く語り継がれたほど。当初は若手の指導役としての顧問だったが、パブリカスポーツの開発では佐藤氏が若手を率いてデザイン実務を仕切り、菅原氏はマネジメントに徹したという。
スライド式キャノピーと空力デザイン
戦闘機のようなスライド式キャノピーは菅原留意氏がかねて温めていたアイデアだったが、それは長谷川主査から与えられた課題を解決するために必要なものでもあった。
フロアとサイドパネルは薄い鉄板の間にウレタンフォームを充填して強度を高め、いわゆる応力外皮構造にして軽量化を図る。そのためにドアの開口部は最小限にする。長谷川主査はそう構想していた。それで乗り降りできるようにするには、スライド式キャノピーが合理的だ。

もうひとつの課題の空力は、関東自工にとって得意分野だった。関東自工は終戦の翌年、中島飛行機の役員だった佐久間一郎氏が中心となり、同氏の故郷の横須賀に、海軍横須賀工廠で働いていた造船技術者を集めて創業。そこに野尻専務をはじめとする元航空機技術者が加わった。飛行機でも船でも流体力学は欠かせない。

パブリカスポーツを真横から見ると、ボディ下端のラインが後ろ上がりの滑らかなカーブを描いている。フロアを逆翼断面にしてダウンフォースを得るデザインなのだ。60年代初期にこれをやっていたとは驚きである。
もうひとつ注目したいのは、キャノピーのスライドレールを内蔵しながらも、ボディサイドのプランカーブ(平面視の曲率)が丸いこと。左右のレールは平行だが、ボディはフロントとリヤに向けて絞り込まれている。空力的にも、スポーツカーとしての軽快な佇まいのためにも、この丸さは重要だ。
復元に共感の輪
前述のように、Automobile Councilに出品されたパブリカスポーツは、諸星和夫氏がリーダーとなって白紙から復元したレプリカである。諸星氏は2003年にトヨタを定年退職後、若い頃に憧れたパブリカスポーの資料収集を始めた。

復元プロジェクトの経緯については、諸星氏が2015年に上梓した『思いの復元 パブリカスポーツ』(三樹書房刊)にその全貌が詳しく語られているので、興味ある人はそれをお読みいただきたい。筆者はたまたま途中経過を何度か見聞きした程度だが、そのなかで感動したことのひとつは、このプロジェクトに多くの人が共感して協力を惜しまなかったという事実だ。

プロジェクトを始めた頃は「図面がない」と嘆いていた諸星氏だが、トヨタ時代の伝手を頼りにパブリカスポーツの開発関係者を探し、図面などの貴重な資料を相次いで発掘した。関東自工が古い図面をマイクロフィルムに撮影して保管していたものが見つかったり、個人の手元に残っていたものが出てきたり。共感の輪が広がり、協力者が増えた結果だ。パブリカスポーツは関東自工の人たちにとって、それほど特別なプロジェクトだったということだろう。
ブーメランの安藤氏
協力者のなかでも実務面で大きく貢献したのが、ブーメランというデザイン工房を経営していた安藤純一氏である。復元プロジェクトが実走可能なプロトタイプに仕上がったのは、安藤氏の努力の賜だ。

安藤氏は若い頃に東京レーシグカーショー(現在のオートサロン)でカスタムカーの世界に魅了され、このショーの常連だった”カロッツェリア渡辺”がカリフォルニアに移転したのを追って渡米。そこでの修行を経て御殿場にブーメランを設立し、自動車メーカーのデザインモデルやショーカー、あるいはレースカーのボディを作る仕事を始めた。
そんなブーメランを諸星氏が2007年に訪ねたとき、「見覚えのあるスケールモデルが目に留まった」と著書に記している。安藤氏もパブリカスポーツに感動したひとりであり、余暇にそのモデルを作っていたのだ。二人はすぐに意気投合し、これが復元プロジェクトの実質的なスタートになった。

最終的にどういう姿で完結させるかは決めないままプロジェクトが進んだが、復元であるからには62年のオリジナルのようにボディは板金製にしたいし、パブリカの700ccを積んで走るようにもしたい。FRPボディでは百戦錬磨の安藤氏だが、板金はおそらく初めてだったはずで苦労したに違いない。
2012年に実走プロトが完成。関東自工とトヨタへの報告会を経て、12月に東京・お台場のメガWEBで関係者向けの完成披露会が開催され、安藤氏の運転で試乗コースをパブリカスポーツが走った。安藤氏が急逝したのは、それから3年もたたないときのことであった。