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Lamborghini Miura
ミウラの原案はダラーラによるもの
1963年に創業したランボルギーニにとって幸運だったのは、若く優秀なスタッフに恵まれたことだった。とりわけジャン・パオロ・ダラーラ、そしてパオロ・スタンツァーニという、ふたりのエンジニアの発想は、後のランボルギーニのプロダクトに先進性を始め、さまざまな特徴を生み出していくことになる。
その象徴的な存在ともいえるのが、ここで紹介する「ミウラ」だ。ミウラの原案はランボルギーニという新天地で、モータースポーツへの進出を胸中で描いていたダラーラによるもので、社長のフェルッチオ・ランボルギーニは創業時からモータースポーツとは明確に一線を引く考えを崩してはいなかったものの、いつでもそれに参戦できる実物を目にすれば、その考えも変わるのではないかというのがダラーラの偽らざる気持ちだった。そして彼は、当時のフォード GT40にインスパイアされたミッドシップスポーツを、まずはロードカーとしてランボルギーニから市場へと送り出すことを提案したのである。
フェルッチオは限定車程度にしか考えていなかった
そのプロジェクトは、最初は正式なものではなかった。それは、あくまでも多忙を極めるダラーラの机上でのみ、すなわち設計図上でのみ進んだもので、彼はそれを「プロジェクト・ミニ」と呼んでいた。これはミニのメカニカルコンポーネンツをミッドシップにしたコンパクトなスポーツカーで、実際にフェルッチオへのプレゼンテーションでも、それが用いられた。
フェルッチオは、最終的にランボルギーニの象徴ともいえるV型12気筒エンジンを搭載したミッドシップスポーツのプロジェクトに開発の許可を与えたものの、本心はそれが大きなビジネスにはならないだろうと考えていたようだ。ランボルギーニの名をさらに広めるための限定車にでもなればよい、といった程度の評価だったともいう。
1965年、ミウラの原型「TP 400」発表
正式なプロジェクトとしての承認を得たダラーラは、スタンツァーニとともにV型12気筒ミッドシップのプロジェクトを本格的に始動する。まず、これまでの350 GT、400 GTから大きく変化したのは、構造体が剛管スペースフレームからスチールパネルを溶接したものへと変化したこと。ミッドのV型12気筒エンジンは4.0リッターと、400 GTのそれに共通する排気量を持つがエンジンとギヤボックスの潤滑を共用するなど、ダラーラがプロジェクト・ミニで採用していた、いわゆるミニと同様のシステムが用いられている。
そしてランボルギーニはまず、このベアシャシーとV型12気筒エンジンのみの姿で、自ら新型ミッドシップスポーツという新たなプロジェクトが存在することを「TP 400」のネーミングとともに、世界に広くアピールしてみせた。1965年のトリノ・ショーでのことだった。
多くのカロッツェリアが感じた可能性
TP 400を見た誰もがランボルギーニがレースの世界に進出してくることを予想したに違いないが、同時にそれにどのようなボディが組み合わされるのかに興味を抱いた。実際この段階ではまだボディデザインは一切決定しておらず、フェルッチオのもとには多くのカロッツェリアからボディのデザインと製作を請け負いたいというリクエストが届いたという。
最終的にフェルッチオがパートナーとして選んだのは、トリノのカロッツェリア・ベルトーネ。当時のベルトーネは、それまでのジョルジェット・ジウジアーロに代わり、こちらも20代という気鋭のデザイナー、マルッチェロ・ガンディーニをチーフ職に任じたばかりだった。そして実際にガンディーニが描き出したミウラのデザインは、フェルッチオはもちろんのこと、見る者すべてを感動させる美しさをもつ仕上がりとなった。
TP 400のデビューから1年後、1966年のトリノ・ショーで正確には「P400 ミウラ」とネーミングされたランボルギーニ初のV型12気筒ミッドシップは、こうして誕生した。レースへの参戦を想定していない純粋なロードカーであることを考えれば、それはスーパーカーの原点といえる1台といえるのかもしれない。(続く)
解説/山崎元裕(Motohiro YAMAZAKI)